
千葉県野田市で起こった、栗原心愛さんが自宅で死亡した事件が、テレビのニュースやワイドショーで、報道されている。心愛さんの父親と母親が身体的虐待、精神的虐待をし続けた結果、10歳の子どもを死に至らしめた。
様々な人々が、野田市の教育委員会や学校現場、児童相談所の無責任性を追及していた。確かに、無責任だと思う。父親の暴力的態度に負けてしまい、子どもを守り、助けることができなかった。
どうして、暴力に対して非力なのだろうか。心愛さんの父親もしつけと称して、自分の親から暴力を受けていたかもしれない。でも、暴力の伝播があったとしても、心理的に肯定してきたから、この父親は自分の子どもにも、しつけとして暴力をふるった。
自分の思いを子どもに伝えるために、愛情なのか支配欲なのか、すれすれのところで、暴言をはく保護者がいる。また、指導の一環と称して、中学生や高校生をなぐる指導者がいる。親だけでなく、教育者でも暴力を肯定している人がいる。
親から暴言や暴力を受けていたとしたら、子どもは率直にSOSを出す。それを受けとめるのが大人だ。それをどうにかして、助けるのが大人だ。ささやかなSOSでも、受けとめるのが大人の重要な役割なのだ。
暴力は心と生命を殺す。この命題を子どもを育成する者は、育成観の支柱にしなければいけない。父親、母親、祖父、祖母、教育機関、地域の人々が、子どもたちを見守り育てる心を持ってほしい。その育成観がないから、暴力に負けてしまうのだ。
子どもは家族だけで育つものではない。子どもにとって家族はベースだが、保育園や幼稚園、学校、地域という社会の中でもまれ、試行錯誤しながら成長していく。
暴力の行使は、性別に関係ない。乳幼児や学童児を保育している時期に「ママのいうこときかないと、たたかれた」「泣く子はウザイと言われ、ベランダに立たされた」等々。胸が苦しくなる状況を聞かされた。
暴力を防止するには、第一に勇気をもって、暴力を行使した本人に指摘すること。そして、何人かの大人が協力体制を組んで、子どもを守り、助けるしかないのだ。それは、おじいちゃん、おばあちゃん、保育士、教育者、地域の人々、行政機関、どんな立場の人でもいいのである。
子どもは、親が所有し支配する存在ではない。親族、地域、教育機関が同じ育成観を持ち、互いに信頼関係を確立することによって、必ず成長する存在なのである。
そうでなければ、虐待で死亡する子ども、心をズタズタに傷つけられる子どもは、後を絶たないと痛切に思う。
「心愛さん、あなたが生きた10年間の道を、心に刻みます」

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