
私の父は、すでに17年以上前に亡くなっている。 享年75歳、バリバリの戦中派だった。19歳で志願兵になり、海軍に入った。軍人でも最下位だったが志願しただけあって、戦場に行くことに、希望を持っていた。
南洋諸島に配属になり戦況が悪化していく中、様々な苦境に出合う。まず、南洋諸島には物資が届かず、食料がなかった。葉っぱが主食みたいなもので、ネズミはごちそうだった。当然、餓死者も出た。しまいには、土まで食べたようだ。
軍属には、朝鮮半島出身者の人々が多くいた。朝鮮半島出身の軍属も、戦後は日本に連れて来られた。「帰還できたのは奇跡だ」と、父は言っていた。
なぜ、こんな状況を私が知っているかというと、子どもの頃から何かにつけて、戦争ばなしを聞かされてきたからだ。
食事をしている最中に「お前たちは幸せなんだぞ、好きな物が食べられて。俺が戦争に行ってた頃はなあ…」と、突然話し出す。私や弟がげんなりして、母がストップをかけるまで止めどもなく話す。
また、横浜にある氷川丸に、何回も連れてかれた。横須賀の猿島にも行った。氷川丸は戦中戦後、海軍特設病院船として運行され、多くの軍人軍属の戦傷者や帰還者を日本にはこんだ。猿島は明治時代以降、東京湾要塞の一部で、猿島砲台(大砲を設置する台座)が有名だ。
JR川崎駅前は、今ではとてもきれいになった。人通りも多くなり、駅前広場でギターや電子ピアノを使って、ストリートミュージシャンが歌っている。
50年ほど前は、暗い地下道があり、白装束の元軍属の人々が、アコーディオンを奏でて軍歌を歌っていた。募金活動をしていたのである。この人々が朝鮮人(当時)であったのは、その頃はわからなかった。
彼らは、アジア・太平洋戦争中は日本人として、戦地に連行され、サンフランシスコ講和条約後は、韓国・朝鮮籍になった。それ以後、日本の援護法の対象から排除され続けた。
私が、5歳ぐらいの頃、母にねだって10円をもらい、缶に入れたことがある。その時、父は私を叱った。「あの人達は、国から補償されているから、金なんていれるな!」と。
この当時の、元日本軍在日韓国人傷痍軍人会の人々の闘いを、1963年、日本テレビ制作のドキュメンタリー作品「忘れられた皇軍」に、映し出されている。監督は、故・大島渚監督である。
縁があって、大島渚氏と知り合い、「忘れられた皇軍」を、見ることができた。父と一緒に見た時、父は泣いた。「あの人達は、朝鮮人だったのか」と。同じ南洋諸島でアメリカ軍と闘い、食べるものがなく、苦しい思いを共にした、戦友だったのか、と。
父は何を伝えたかったのか。戦況における苦労ばなしか。それとも、意識的な反戦志向か。どちらでもない、と今では思う。自分の経験を通して「戦争は、飢餓と差別を生む」という、メッセージだった。
父が伝えてくれた事に、今では感謝している。子どもの頃は、悩ましくてしょうがなかった戦争ばなしは、心の中で生き続けている。
戦争を経験したことのない世代が、どのように「アジア・太平洋戦争」を咀嚼して、表現すればいいのか、私のライフワークの一つである。

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