友人の死から学ぶ

2019年に、近しい友人が亡くなった。彼は長い間、うつ病をわずらっていた。死因は自死であった。 享年59歳。還暦を迎えずに旅だった。若い死である。 

友人は、若いころからの知り合いだった。友人は、子どもたちにイエスさまの生き方を、やさしく説いていた。民族や文化が違っても、お互いに認め合い尊重しあえるようにと、楽しく分かりやすく説いていた。 

うつ病になる要因は、さまざまである。精神的に弱いからだとか、生真面目すぎるからだとか、本人のパーソナリティに問題性があると、判断されがちである。でも、要因は複合的であり、本人がおかれた状況が大きく影響する。じっくりと生き方や成育歴を聞かなければ、根本的な要因はわからない。 

私は、家族相談士、家族療法カウンセラーの資格を得ているが、友人が亡くなった時は、愕然とした。時間がたつにつれて、自分は何をすればよかったのか。彼の家族を支えるにはどうすればよかったのか。ずーっと考え続け、1年がたった。 

亡くなった直後は、課せられる雑事があり、家族にはなかなか悲しむ余裕がない。 

1カ月、3カ月、半年ぐらいたつと、残された人々はロスト状況なるように思う。私でさえそうなのだから、家族の喪失感は、深いものであると察せられる。 

同じレベルでは考えられないが、子どもの虐待死や自死を考えてみた。 

近年起こった、保護者による小学生の虐待死や、自死する中学生の心情に思いをはせた。大人の感情を暴言や暴力として押し付けられ、亡くなってしまった子ども。また、学校でのイジメに耐えられず、誰にも悩みを打ち明けられずに自死する、思春期の子どもたち。 

虐待する保護者は、子どもが自分の所有物のように思っているのだろう。 

大人に自分の苦しみを伝えられない子どもは、イジメられる自分が悪いと、思っているのだろう。自分が弱いから、ダメなんだと思ってるかもしれない。 

保護者というのは両親だけではなく、未成年者を保護する義務がある人々も意味する。祖父母や親族、広義の意味では保育士、幼稚園教諭、学校教諭である。子どもの虐待やイジメを、保護者という大人たちが見過ごした結果が、子どもの死であると思う。 

私は友人の死に直面し、死に至るまでの苦しみは同じであると思った。そして、子ども社会で起こっていることは、大人社会の反映であると思った。 

また、自死しようとする心境は、自分の生き方や死のあり方を、悩み模索しながらも、周辺の人々にうまく伝えられない、苦しみや哀しみがあると推測した。 
 

そして、子どもの死は、大人より残酷だ。保護者の考え方や暴力で、親族や周辺の人々の黙認や躊躇によって、いかようにもなるのである。もし、虐待を受けて助かったとしても、深刻な精神的やまいや身体的障がいを負うのである。 

未成年者の自死は、学校でのイジメや家族からの疎外で、生命力を奪われ、生きる気力や知恵を失ってしまった結果である。 

やはり現代の日本社会は、子どもや精神的やまいをわずらっている人に、優しく寛容な社会ではない。社会を担っている人々が、暴言や暴力に対して、無意識に容認し黙認しているからではないだろうか。 

亡くなった友人は、子どもたちに優しく、寛容に援助できる人だった。そして、がまん強かったのだろう。私は「苦しい」という言葉を、聞くことはなかった。 

友人の死を通して思うことは、私たちが「苦しい、助けて…」の心のサインを、聴くことができるかどうか、試されているということだ。大人は言葉にしないけれど、表情や態度で表現している。子どもは、ストレートに「助けて!」と、言葉で助けを求めてくる。 

「苦しい、助けて…」のサインを、いかに受け止め共感できるか。これからの相談士としての生き方の支柱にしようと思う。それが、友人の死から学んだことである。

 5月11日、友人の命日。この日を忘れることはないだろう。