
47歳から60歳の定年までは、川崎市において小学生の放課後児童クラブ=わくわくプラザで、学童保育実践に励んだ。だから今、児童の自死・自殺を見聞きするたびに、私がみていた子どもたちの顔や表情が、浮かんでくる。
その場の雰囲気をキャッチするのが苦手で、仲間はずれにされてた低学年女子。 毎日のように暴言をはいて、女の子集団から無視され続けた低学年男子。
授業についていかれず「ぼくはダメなヤツだから」とぼやく、すべてに自信のない中学年男子。
いつもグループの中心にいて、友だちに命令口調だった高学年女子が、ある日突然、グループ内で無視されたこと…。
あまり良くない場面が、走馬灯のように頭の中をめぐる。でも、トラブルが噴出するたびに、子ども一人一人に話しを聞いた。問題解決するために、子どもたちと話し合った。もちろん、私一人でやったわけではない。スタッフ間で問題意識を共有し、役割分担をしながら実践をした。チームプレーじゃないと、やり切れない。必要に応じて、保護者とも話し合った。
子ども実践は骨がおれる。気力がなければ、子どもとつき合えない。だから、学校教育の大変さ、先生たちのしんどさも、よく理解できる。
でも、小学生たちの心情は、もっと大変なのである。その大変さを理解するのに、時間がかかった。子どもの様子を観察し、子どもの話しを聞き、じっくりとコミュニケーションを取らなければ、理解できなかった。
退職をする少し前から、家族の問題を学習したいと思い、通信教育やいくつかのカウンセリング講座を受講した。 子どもの問題は、保育園や幼稚園、小学校・中学校の公的機関の教育問題だけでは語れない。
子どもの家族関係は、どのような状態なのか。何を食べて、どのような生活環境で育ったのか。それらが、子どものパーソナリティ育成に大きく影響する。 家族は子どもが生まれて初めて出会う、社会集団である。その集団の構成や保護者の子育て観が、子どものパーソナリティを色々な方向に向かわせてしまう。
この現実的真理を、さまざまな家族療法から学ぶことができた。保育は、教育とは若干違う。指導する実践より、寄りそう実践が本来のあり方だと思う。それは、集団からはみ出てしまう子や障がいのある子には、ゆったりと寄りそわなければ、学童保育は成立しないからだ。
乳幼児保育、学童保育、家族への子育て支援も含めて、寄りそう実践が求められている。そのためには、子どもの心の内と、保護者の思いをじっくりと傾聴し、理解できるような感性を磨かなければならない。そのような、カウンセリング能力を養うことが、今、実践者には必要なのではないだろうか。

コメントを投稿するにはログインしてください。